僕がシャルコー・マリー・トゥース病と診断されたのは小学5年生の時でした。最初に異変に気がついたのは母で、歩き方が変だということでした。足の裏全体で地面を踏めずに外側の側面が地面について歩くようになっていました。まぁ、内反足というやつですね。ただ、今考えてみるともっと前から症状があったような気がします。転びやすかったり、体がガリガリに痩せていたり、足の甲が盛り上がっていたり 足の指が曲がっていたりしていましたから。
今は神奈川県に住んでいますが、当時は父の仕事の関係で北海道の札幌に住んでいました。そういうことで、診断を下されたのは北海道大学病院でした。その時点でも手術をした方が良かったのですが、小学校を卒業したらすぐに神奈川県に帰る予定だったので手術はそれからということで、その間は装具をはめて過ごしました。北海道にいたころは、父に連れられてよく山登りをしていたので、筋力の低下という症状は目立った形では出ていませんでした。
小学校を卒業した後、神奈川県に帰り地元の中学校に入学して、その年(1988年)の5月に横浜にある県立こども医療センターの肢体不自由児施設に入所しました。それから、いくらかの検査を経て7月に足の変形等を治すための手術を受けました。左右別々に受け、この時は右足でした。左足の手術は10月でした。その後はリハビリを行い翌年(1989年)に退所しました。
中学1年生のほとんどは病院内にある養護学校で勉強したことになります。養護学校の授業では一般の学校にはない養訓というものがありました。その名の通り訓練的要素の授業で、その当時は灘普及してなかったパソコンを使ったり,陶器を作ったりと、とても楽しいものでした。
ここを退所した後から今までシャルコー・マリー・トゥース病に関しての治療や検査は全く行っていません。
退所後は地元の学校に通えるようになりました。そして同年(1989年)、中学2年生の時の学校の尿検査で蛋白尿が出ていると指摘され、今度は腎臓の方でこども医療センターに通院しなくてはいけなくなりました。その年に入院して腎生検という検査をしました。これは背中に注射を刺して、腎臓の組織を採取し腎臓の状況を調べるものです。この検査によって慢性腎炎
ネフローゼ症候群と診断されました。ですが、この後も塩分以外の特別な食事制限をすることもなく過ごしていきました。ただ、過度な運動は腎臓に負担がかかるので体育の授業は制限がありましたし、運動会も出られませんでした。制限といえばそのくらいで高校にも進学することができました。
時間は過ぎて高校2年生の秋に再び腎生検のために入院しました。いつからだったかは忘れてしまいましたが、このころは東京女子医科大学病院に通院していました。前にも書きましたが腎生検は通常、注射で組織を採取するのですが、この時はすでに腎臓が硬化していて針が刺さらない状態だったので、メスをいれて採取することになりました。この検査で
慢性腎不全にまで悪化していることが分かりました。ここからかなり厳しい食事制限が始まりました。高カロリー・低タンパク・減塩という食生活ガ必要になりましたが、自分では料理が出来ないので母にはかなり大変な負担をかけてしまいました。
僕知っている範囲では腎不全になってから人工透析の導入に至るまでかなりの期間があるものですが、僕は翌年の1月、慢性腎不全と診断されてから3ヵ月くらいで人工透析を導入せざるを得なくなりました。僕は人工透析をするのが嫌でかなりねばって避けていました。導入した時はろれつが回らず、意識が朦朧としていてまともに歩けない状態でした。血液検査のカリウムの数値が8.0以上で心不全になってしまうのですが、その時7.8で命が危ない状態でした。かなり無理をして人工透析の導入を拒んでいましたが、結局17歳の1月に導入することになってしまいました。
その後、2001年に血液透析からCAPD(連続自己携行式腹膜還流)へと移行しました。理由は心臓に負担がかからないことと、針を刺す痛みがないこと、それに食事制限や水分制限が軽減することです。ですが、CAPDは永続的に出来るものではないので、いずれは血液透析に戻さなくてはいけないのですが、2006年11月現在の時点ではまだ続けることが出来ています。
僕の病気と障害についてはこんな感じです。"障害の改善に向けて"のページではシャルコー・マリー・トゥース病の改善への取り組みについて書いています。 |